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東京高等裁判所 昭和47年(う)252号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人を禁錮六月に処する。

理由

〈前略〉

控訴趣意第一について。

所論は、原判決は道路交通法七二条一項後段の解釈適用を誤り有罪たるべきものを無罪とした違法があるというのである。

そこで考えてみるのに、道路交通法七二条一項後段の規定が交通事故が発生した場合において運転者等に対しその発生の日時・場所・死傷者の数・負傷の程度・損壊した物および損壊の程度ならびに当該交通事故について講じた措置の報告を義務づけている法意は、警察官をして交通事故の発生を知り、被害者の救護・交通秩序の回復につき適切な措置を執らしめ、もつて道路における危険とこれによる被害の増大とを防止し、交通の安全を図る等のためのものであつて、その交通事故の原因となつた犯罪の捜査を目的としたものではなく、したがつてその報告すべき事項も交通事故の態様に関する客観的な事項のみに限られ、いやしくも事故発生者が刑事責任を問われるおそれのある事故の原因その他の事項を含んでいないことは、同条項の文意に徴しても明らかである。それゆえ、同条項は、犯人に対し自己の犯罪事実そのものの申告を義務づけるという意味においていわゆる黙秘権を規定した憲法三八条一項に違反しているといえないことは明らかである(旧道路交通取締法施行令六七条に関する昭和三七年五月二日に言い渡された最高裁判所大法廷判決(刑集一六巻五号四九五頁)および現行の道路交通法七二条一項後段・一一九条一項一〇号について昭和四五年七月二八日に言い渡された同裁判所第三小法廷判決(刑集二四巻七号五六九頁)参照)。

しかしながら、たとえ右の条項が運転者等に対し同人が事故を発生させたこと、その際の過失の有無などについて報告義務を課していないとしても、交通事故発生の日時・場所・死傷者の数・負傷の程度等交通事故の態様を具体的に報告することを義務づけることは、実際問題として報告者が当の事故発生者であることをおのずから判明させることになる場合がきわめて多く、このことに報告の相手である交通警察官が同時に司法警察職員でもあることをも合わせ考えると、右報告によつて間接に警察官に犯罪発覚の端緒を与えることすなわち報告者を刑事責任に導く証拠連鎖の一環を提供することになるおそれのあることは否定しえないところである。したがつて、右の規定が直接自己の犯罪事実の申告を求めていないとはいつても、それだけの理由で自己に不利益な供述を強要するものでないといい切るにはなお躊躇されるものがあるといわざるをえない。

そこでこの点をさらに考えてみるのに、憲法三八条一項によつて保障される自己負罪拒否の特権といえどももとより絶対無制限なものでないことは氏名の黙秘につき判例の示すとおりであるところ(昭和三二年二月二〇日大法廷判決・刑集一一巻二号八〇二頁)、元来道路における車両の運転は公共の施設である道路を広い範域にわたつて占有・利用し、しかも高速度で走行するのが常であるため、歩行者・他の車両等に重大な危害を及ぼす高度の危険を伴う行為であることは、そのため運転免許の制度がとられ一定水準以上の技術と知識を会得した有資格者でなければ運転が許されていないことからみても明らかである。そこで、このことにかんがみると、いやしくもこのように一般に対し重大な危害を及ぼす高度の危険を伴う車両運転を自らあえてする者としては、免許の有無を問わず、これに相応する義務を負担するのもやむをえないところであつて、かかる運転者に対し、その者に関係ある交通事故発生をみた場合、道路交通の安全の保持・事故発生の防止・被害増大の防止・被害者救護の措置に万全を期するため、その態様に関する客観的事項を警察官に報告させることは、たとえそのことが前記のように間接には自己負罪拒否の特権すなわち黙秘権をなにがしかは侵害する結果になる場合があるとしても、許さるべきものであり、その程度の黙秘権の制限は、車両を運転する者の黙秘権に内在する制約として是認されなければならないところである。

ところで、前記道路交通法七二条一項後段の規定をみるのに、同条項は、交通事故があつたときはその運転者等は所定の事項を警察官に報告しなければならないと規定しているのであるから、いやしくもそこにいう「交通事故」が発生した以上その具体的状況のいかんにかかわらず報告の義務を課した趣旨のものと解される。これに対し、原判決は、当該事故の具体的状況上警察官が負傷者の救護、交通秩序の回復につき適切な措置をとるため報告を求める必要が現実に存在する場合にかぎり報告義務を認めるのが同条項を合憲に解する所以であるというのである。しかしながら、もし原判決のように解するならば、報告を要する場合かどうかは客観的に決定される問題だとはいつても、実際の問題としては同条項所定の報告をすべき場合であるかどうかを当該運転者等の判断に委ねることになるといわざるをえないが、本来被害者の救護、交通秩序の回復につき警察官に適切な措置を執らせるため情報を得させる目的で報告を必要とする法の趣旨からすれば、このように報告の要否を当該運転者等の判断に任せることは全く適当でなく、具体的状況のいかんに関係なく一応警察官に報告させるということには十分な合理性があるといわなければならない。そして、一律に報告義務を課することに右のような合理性のあることと前述したような車両の運転者等の報告義務と憲法三八条一項所定の黙秘権との関係とをあわせ考えると、たとえ具体的、結果的には報告の必要のない場合にも報告義務を課することになつたからといつて、それはやむをえない黙秘権の制約であり、憲法の右条項に違反するものとは考えられない。したがつて、これとは異なり、事故の状況を個々具体的に観察し、当該交通事故により交通秩序が混乱したことがなく、事故発生後に負傷者の救護がなされたような場合には運転者等は報告義務を免れると解して本件につき無罪を言い渡した原判決は道路交通法七二条一項後段の解釈適用を誤つたもので、この誤りが判決に影響を及ぼすことはいうまでもないから、論旨は理由があるといわざるをえない(しかも、本件の具体的状況についてみるに、一件記録によれば、小早川修一運転の普通乗用自動車は本件交通事故により県道から海岸に通ずる幅員約3.9メートルの小路の入口付近に停止し、右小路の約半分をふさいだため自動車が右入口を通行することが不可能な状態になつたことが認められるのであるから、右小路の海岸までの長さが約二〇メートルに過ぎず、海岸から他の道路を通つて県道に達することが容易であつたとしても、右交通事故により付近の交通に重大な支障がなかつたとはいいきれないし、自動車の窓ガラスが割れて破片が県道上に散乱したこともある以上、そのまま放置しておいてよいわけはないから、かりに原判決の見解を前提としても、報告義務がない場合にあたるとはいえない。)。

よつて、他の論旨に対する判断をするまでもなく刑訴法三九七条一項・三八〇条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により当裁判所においてさらに次のとおり判決する。

(罪となるべき事実)

原判決が認定した事実のほか、三として「右二記載の日時・場所において右二記載のとおり自己の自動車の交通による事故のため、小早川修一を負傷させたのに、その事故の発生の日時・場所等法令の定める事情を直ちにもよりの警察署の警察官に報告しなかつたものである。」を認定する。

(右の認定事実に対する証拠の標目)

原判決挙示の各証拠と同一であるから、これを引用する。

(法令の適用)〈略〉

(中野次雄 寺尾正二 粕谷俊治)

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